タカの日記

医療系サラリーマン兼ラガーマンの日々の思いをまとめていきます。

突然の連絡No.019

9/14の午後に連絡が来た。以前に何度か一緒にラグビーをやったことのある奴が試合中に倒れてそのまま帰らぬ人となったという話を。

今年は別のチームでやるということだったので会う機会は減っていたが出身が同じということで会った時は地元の話などもしていた。

まだ若く大学卒業して2年目くらいだったと思う。

実は僕はこれでラグビー中の出来事で友人を亡くすのは2回目である。

どちらもそれぞれの試合の当事者ではないものの個人的につながりがある人をなくすのは本当に辛い。しかもどちらも20代中盤という若く将来もある時だったのでなおさら。

1人は脳震盪、もう1人は心筋梗塞だそうだ。何か嫌なことが起きてしまうと誰かのせいにしないとやりきれない気持ちになってしまう。当該チームの安全管理はちゃんとしていたのか?とかバタフライエフェクトではないけどもしどこかで自分が違う行動とかを取っていたらそんなことにはつながらなかったんではないかなとか。

脳震盪で亡くなった友人も確か9月だった。僕はその時は当時のチームで北海道遠征に行き試合に臨むところだった。

亡くなる友人とは高校の時のつながりで帰る方向が一緒でよく自転車を漕ぎながらいろんなことを語りながら帰った思い出もある。そこにはもう1人の友人もいた。よく彼女と一緒に帰っていたので僕たちと帰ることは少なかったけどそれでもそいつが独り身の時は3人でコンビニに寄ったりしながら帰っていた。

僕が北海道で試合をした時に、当時札幌の歯科大学に行っていたそのもう1人の友人が見にきていた。ちょうどその試合と同じ時間帯にもう1人の友人は命を落とすことになる大怪我を負っていたということになる。

この時の彼はしばらく意識不明の重体という状態が2週間くらい続きその後に亡くなった。明るく人受けが良い人だったのでとんでもない数の友人が葬儀に来たという話も聞いた。

そして今回の件、また胸にぽっかりと穴があきそうな出来事だ。不安で動けないとかいうほどではないけれど、少しずつ何事にも対するやる気みたいなものを奪っていってる気がする。

明日は会社だけど終わったらやはり通夜には顔を出そう。後悔だけはしないように。

ラグビー高校一年生編No.018

前の投稿からだいぶあいてしまいました。

定期的に見てる人とかおるんかな?


晴れて高校生になることも決まったので春休みの時点で練習にも参加しなさいということで同じチームだった友達と連れ立って高校の練習に行きました。

ただ、その友達は中学校の九州代表に二年生から選ばれていて高校進学時も九州の高校ならどこにでも推薦で行けると言われるくらいの逸材でした。

その友達と比べると、自分はラグビー経験はあるもののほとんど一般人みたいなもんでした。身長が165cmくらい、体重は60kgちょっと。

他のチームからも同級生となるメンバーも集まってましたがその中でも実力は下の方だったと思います。

その春休みの練習で怪我をして大した練習もできないままに入学式へ。クラス発表で男子クラスと判明した時は青春が終わったと密かに嘆いていました。他のラグビー推薦で入ってきた友達たちはみんな女子がいるクラスになってました。

一年生の時は試合には出られるはずもないだろうから二年生になった時が勝負の年だと密かに考えてました。

ただ、ポジションはフッカー、当時の三年生にはフッカーの先輩がおらず二年生には2人いたものの1人はプロップ兼任となると、スクラム練習になると必然的にフッカーが2人しかいなくなります。そうなると練習では唯一上級生の中に入ってスクラムを組むことになりました。

これがひたすらにしんどい。精神的プレッシャーと肉体的プレッシャーが同時に襲ってきます。足や腕がパンパンになりスクラムが弱くなると両サイドの先輩から「力を抜いている!」と檄が飛び、相談できる人もなくただただ苦痛でした。

ストレスが限界に来た時に6月の半ばくらいに部活休むために学校休みましたもん(笑)。

一年生の時は試合に出ることはあってもBチームだったので、レギュラーなんて夢のまた夢。先輩たちは見事に県内6連覇中の某強豪私立高校を県大会決勝で下し、見事花園への切符を手にしました。

もちろん嬉しかったですけど、やっぱりどこか他人事のような感じ。

ただ大阪入りして先輩たちの練習に付き合いながら、あと何日一緒にできるのかなと思うと切なくなってきたのも事実でした。

花園の最後は、今年覇権復活を目指し母校の監督になった人で現役時代は大学選手権優勝時のキャプテンだった人が率いる神奈川の某強豪私立高校に敗れて高校の1年目のシーズンは終わりました。

この花園で過ごしている時に友人のお兄さんが大学時代のラグビー部のキャプテンをしている時を描写したオールアウトという本に出会いました。

大学生でこんなことを考えているんだ、と今その当時の彼らの年齢を優に超えた今でも痛感させられます。

増補改訂版が出るみたいなのでまたあの時の気持ちを思い出すように読んでみようかな。

脱線 高校受験編No.017

ラグビーは中学校編まで終わりましたがここからは少しラグビーから外れて高校受験編を書きたいと思います。

 

ラグビーの大会に負けた6月から土日の練習も終わり、平日は中学の部活をしてなかった自分は一気に暇になりました。

とは言っても受験生、学校終わったら塾に行って友達とだべりながら帰ると言う生活を続けていました。

 

ラグビーの友達も学校がみんな違うので会わなくなりました。その中でラグビーチームのコーチと話したりもして自分の進路の相談もしたりしました。

 

特に一個上の先輩たちは九州大会にも出場したのでラグビー推薦なんかがもらいやすかったらしく、本来の自分の学力よりもランク的に上の高校とかに行ったみたいです。

 

ただ、それがコーチの独断だったらしく、スクールの方針とは合わないらしく進学の道具にラグビーを使うなというような流れにもなったらしいです。

 

そんな中、たまにチームのみんなで会う機会があれば進路の話になりどこに行くのかまた近隣の2チーム(九州大会優勝チームと4位のチーム)の主力選手もどこに行くんだろうなんてみんなでワイワイ集まって話してました。

 

自分の志望校は地域で一番の公立の進学校でした。ラグビーも一度だけ花園に出たこともある県内では強い高校でした。

 

自分たちが県大会で負けたライバルチームの主力でもありクラスメイトの友達は少し遠くの博多の強豪私立高校(笑)に行くと言ってました。当時でも全国大会常連校、いまだと全国BEST4くらいは毎年行くような超強豪校です。その彼は中学校のオール九州のメンバーにも選ばれていて冬には遠征にも行くという有望選手だったのでその高校に行くのも納得でした。

 

その彼のお兄さんが自分たちの2個上で志望校のラグビー部にいるということもあり、行く前からいろんな情報は聞いていました。

 

あと、自分のその高校の志望理由はもう一つありました。父親もそこの高校のラグビー部出身でした。

 

なんとしても受かりたい、受験のチャンスを増やすということで推薦入試も受けてみようと思いました。

 

実際前年度のラグビー部の先輩たちはほとんど推薦で合格してました。推薦だと2月の中旬くらいに結果が出るので一般受験よりも1ヶ月くらい早く受験戦争から逃れられます(笑)。

 

そして、推薦の面接と小論文、どちらも失敗はなかったと思いましたが結果的には落ちてしまいました。

 

流石にショックを受けてそのことを聞いた当日は学校終わってから塾に行けませんでした。

 

後々聞くと、同じラグビーチームからは自分を含め3人受けましたが残りの2人は見事に受かりました。自分の内申点が低かったのと推薦で受かったうちの1人は推薦に落ちたら一つランクを下げた公立高校を受験するつもりだったそうです。

 

なので自分にはもう一回一般受験をして来い!!という意味だったのではといまは思えます。

 

そして一般受験の日。結構試験の出来は良い感じで合格後のテストの点公開の時に聞いた話だと上から30番だか50番くらいには入っていたそうです。60点満点の5教科のテストで270点くらいは取ってました。ただ、中学校の先生からの評価は低く、内申点は合格ラインに届かなかったそうです。

 

本当に落ちるか落ちないかくらいの当落線上にいたみたいですが、そこはラグビーをやっていたということもあり、名前を覚えていてくれた先生が合格させてくれたというような逸話を聞きました。

 

いま思うとこれくらいしか勉強に関しては誇れることがないです。現時点で34歳の自分の15歳の頃が頂点だったのでしょうか(笑)。

無事に受験も終わり、高校編に突入します。

ラグビー中学校編No.016

小学校のミニラグビーも卒業して中学のジュニアチームの一員になりました。

まず何が違うかというと、小学校の時は学年で区切られているので一学年10人ちょっとくらいでワイワイやってる感じでしたがジュニアになると中学生という一つのくくりになるので先輩もいるわけです。

 

自分たちの二つ上の代は小学校卒業と同時にみんな抜けていき最後まで続けていたのが1人だけでした。その先輩はのちに高校でも先輩になる人で、卒業後はレフリーとしても活躍されています、今もかな!?

ただ、この代はいかんせん三年生が1人ということで2年生中心のチームは県大会でシーズンが終わってしまいました。

 

そして2年間ラグビーを一緒にやる一つ上の先輩たちは個性豊かで人数も多かったです。

チーム創設以来初めての九州大会出場も果たし、九州代表にも2人選ばれました。この2人とは別に後の大学選手権決勝のメンバーやトップリーグ、日本代表キャップを持つ人もこの代にはいました。

 

自分が2年生、先ほど書いた一つ上の先輩方が3年生の時には福岡県大会を勝ち抜き、最後は抽選で九州大会にも行きました。

 

このころの自分はというと試合に出ることも出来ず、九州大会も帯同はしましたが試合に出る見込みが全くなかったので宮崎県代表のチームが人数不足のために参加できないので助っ人に行くことになりました。

 

九州大会の開催地が九重だったのでその名も「九重ドリームス」でしたが、参加してる僕達はいわば戦力外通告者たちなので夢も希望もありませんでした。

 

先輩たちはというと準決勝で優勝候補のチームに負けてしまい(うちのチームから1番近い同じ市内のチーム日本代表のパナソニックの山田選手が育ったチーム)、3位決定戦に回りました。

 

3位決定戦は相手が確か大分県代表やったなぁ。うちのFWの主力の選手がその準決勝で怪我をしたのでイマイチリズムが出ず、負けてしまいました。

 

ウォーターボーイをしながら見てましたが最後はみんなで号泣したのがいい思い出です。

 

一段落しそうですが、これまだ一個上の代の話です。ここで負けて引退してから新チームが始まります。

 

新チームになりましたがいかんせん自分たちの代はみんなホワッとしているというか勝負事にあまり向いてないんじゃないか!?と思える人が大半でした。

 

コーチの方からは去年のメンバーよりも戦力的に充実してると言われてましたが結局九州大会は出場かないませんでした。

 

今でも覚えているのがこのシーズンの県大会の時に自分の母校となる高校のラグビー部の部長の先生から声をかけていただいたことを覚えております。

チームの12人のメンバーの中で実力から数えても下から数えた方が早いし、そもそも最後の試合にも後半だけしか出られないくらいの実力でしたが、見てくれる人もいるんだと思いました。

 

最後に負けた試合は相手はこれまた隣の市のチームでよく練習試合とかしてたチームでした。

 

その中の1人は中学校では同級生でしたが、チームは別々、勝者と敗者になったので試合の翌日に顔を合わせた時はなんとも悔しかったです。

 

この試合が6月くらい、もうシーズン終了ということで受験勉強に向かうことになりました。

 

ラグビー小学校編No.015

改めて小学校編ということで始めはよくわからないまま親に連れて行かれ先生とパスをして始めたラグビーでしたが、それからしばらくして試合がありました。

 

その試合の時にうっすらと覚えているのはなぜかポジションはスタンドオフでした。今も昔もスタンドオフのポジションは試合中は司令塔、ゲームリーダーを務めますがなんで自分がここをやっていたのかが今考えてもちっともわかりません。

 

そして学年が上がるにつれてバックスの中でもセンター、ウイングと端っこの方に追いやられて確か3年生のときにはもうFWしてました。この頃うっすらと記憶にあるのは調子が良くてチーム内でも3番手くらいにいた事です。

 

でも4年生になってなんか色々もやもやしててその頃小学校のソフトボールを始めたのも併せて「なんかラグビーやめたい!!」ってなりました。

 

とりあえず練習に行くもグランドの隅っこでメソメソしててみんなから励まされ、その日はとりあえず辞めずにソフトボールと並行して続けることになりました。この時に止めてたら今何しとるんやろ!?

 

ソフトボールのチームは結構強かったのでレギュラーにはかすりもしないけどとりあえず練習試合とかでは結構勝ってました。出番は勝っている試合の6回とか7回とかの代打とか守備固め!?です。ラグビーの方はというと同じ市内にあるもう一つのチームが強くて(結局このチームは後の中学の九州大会も優勝しています。)もう一つの隣のチームも結構強いという感じなので練習試合するといっつも負けという記憶しかありません。

 

5年生になると大会にもエントリーしました。県大会になるのかな?福岡では少年ラグビーが結構盛んで県内には当時でも20を超えるチームはあったと思います。そのチームが集まって1日2試合、3週間に分けて計6試合の成績で順位を決めるというようなやつでした。

 

5年生の時は一応、Aチームで出ましたが惨敗続きでタックルに行かなくて先生に怒られた記憶しかありません。

 

6年生の最後の大会ではチームはBチーム、みんなで好き勝手しながらワイワイやってたのを覚えてます。相手も弱かったので幾つかの試合では勝てたのも大きかったですね。

 

この時に主に僕達を引率してた先生が急遽Aチームを見なければならなくなったらしく、その場を離れる時に言ったセリフが「別にお前たちを見捨てたわけじゃないぞ!!」と言ったんですが、なんかあえて言葉に出されると、そうか、やっぱり俺たちってBチームなんだし優先順位も後回しにされるのもしょうがないよねと思った次第です。子供に対する言葉遣いって気をつけようと今まさに痛感しています。

 

そんなこんなで小学校のミニラグビーも卒業、そのままラグビーからも卒業して離れる子もいましたが、持ち上がりで続けるという子がほとんどでした。

 

自分もやめる選択肢はなかったのでそのまま続けることにしました。

中学生編に続く。

 

ラグビーを始めたきっかけNo.014

かれこれ四半世紀以上ラグビーをしていますが、始めるきっかけを書いていこうと思います。

 

とは言ってもすごくシンプルで父と祖父の影響です。父は自分と同じ九州の公立高校でラグビーしていました。そのあとは大学にはいかず、すぐに就職。就職先は九州では盟主とも古豪とも言われるインフラ系の会社です。

小学校に上がる前からよく、父親が会社のラグビーチームの試合を見に行くのについて行ってました。ルールもわからずなんか蹴ってばっかやなーってのが当時の印象でした。父はもちろん会社のチームではプレー経験はなく、ただのラグビー好きのおっさんという感じですかね。

 

祖父はというと、父方ではなく母方の祖父です。若い頃にラグビーをやっていたらしく、ラグビーを始めた後には試合も見に来てくれたりもしました。ただ、自分が11歳くらいの時に他界したので、高校での花園などは見にこれませんでした。

 

まぁ、こんな感じで家庭環境にもラグビーというものが身近にあった中でもう一つの偶然が重なりました。小学校の先生がラグビースクールの先生をしていたのです。PTAの集まりで母親に声をかけたらしく、いつの間にか練習に行くことになっていました。

 

よくわからないまま、変な形のボール持って先生とパスをしたり、走り回った記憶しかないですね。それが今も続いていて、息子にもラグビーさせようかと考えている身だとは面白い縁ですね。

 

そのラグビースクールは家からは結構遠いところにあり、いろんな小学校から子供たちが集まっていたので、自分も市内の他の地域にも友達ができたのは良かったと思います。これが小学校に所属するスポーツとは違うところになりますね。

 

楕円球の世界に足を踏み入れたのが確か1989年の6月くらいだったと思います。そこから物語は始まると言っても過言ではないでしょう(笑)。ただ、その物語は今も継続中で日本代表になるなんてエンディングはないことは分かっていますが。

明日は小学校編書こうっと。

pound for pound パウンドフォーパウンド No.013

タイトルはボクシングの世界では有名な言葉らしいのですがちょっと思い出したので書いてみます。

 

アメリカにいたときに一緒にラグビーしていたロサンゼルス在住の友達からメールが来ました。とある大会でFresno(自分のいた町、ロサンゼルスからは車で4時間くらい)の人たちが来てて話したら「タカと昔ラグビーしてたよ」という話をしてよろしく伝えるよという連絡でした。

 

帰国が2006年なのでもう10年経っちゃいましたね。30になるまでに一回行ってUnder Over 30 game(チームを30歳で分けてガチンコ勝負をするというものです。)に出たかったです。という話は置いといて、、、。

 

その連絡くれた友人が自分のことを「良いプレーしてくれて助かったよ」と言ってたよとも教えてもらいました。

 

10年経っても一緒にやっていたことを覚えていてくれたことも嬉しかったです。

 

そこでタイトルのpound for poundなんですがボクシングの中では階級とかサイズとか考えずに今1番強いと思われる選手を表すときに使われるそうです。

 

普通に考えれば1番身体とかがでかいはずのヘビー級のチャンピオンが1番強いと考えられますが、軽量級や中量級の選手でもとんでもなく強かったりすると、階級を超越して強い!!みたいな感じで使われるみたいです。

 

あるアメリカ時代のラグビーのチームメイトが「お前は俺の知る限りじゃラグビーの中でパウンドフォーパウンドだ!!」と言ってくれたのは今でも誇りに思えます。

 

当時は多分、チームでも最軽量くらい、それでも大きな相手にタックルしに行ってたところなんかをそのチームメイトは覚えていてくれたんだろうか?

 

facebook上の文字だけでしたが読むとこみ上げてくるものがありました。今ではそんなことを言われることもないのでたまに、この文章を見返しに来て元気を出そうと思います。