タカの日記

医療系サラリーマン兼ラガーマンの日々の思いをまとめていきます。

ラグビー高校二年生編Part3 No.023

秋の県予選が始まる中で練習をするときにAチームのメンバーと一緒にやれるのがとても誇らしかったのを今でも覚えてます。


高校日本代表候補が2人、オール福岡が6人も居たチームなので今でも一発勝負なら花園優勝校ともいい試合をするんじゃないかなと思います。


そして始まった県予選。初戦が2年前の決勝に進んだチームでした。ここも当時は公立高校で進学校かつラグビーが強い高校でした。2年前は準決勝でうちの高校と当たり、リードしていましたが、最後に同点に追いつかれた末の抽選負けということでした。


そんな相手も30ー0くらいのシャットアウト勝ちでした。


社会人になった後でこの時の対戦校の人と2人一緒にラグビーの試合もしました。分からないもんですね。


そして二回戦も相手の戦術にはまって泥仕合になりかけましたが、やっぱりエースの活躍で相手を退けて次に進みました。この時の相手チームには中学ラグビーの先輩であり、のちの関東学院三洋電機で活躍する先輩もいました。


そして準決勝。相手は福岡県で知名度が一番あると言ってもよい公立高校です。


久しぶりの準決勝ということで相手は全校応援?だったのかな。グラウンドから観客席を眺めるだけで少し緊張しました。


その試合もスコアは少し開いて勝利を収めましたがここからが自分の下り坂。


怪我で離脱していた先輩も戻ってきたり、チームの動きが悪かったのでテコ入れするということでAチームから外れました。


離脱していた先輩と同じポジションだった自分の同期が「また先輩がすぐにやらかして落ちてくるさ」みたいなことを言って励ましてくれたのが胸に沁みました。


普段は上から目線でいつも僕をdisってばかりの彼でしたがこの時ばかりは自分に気を使ってくれたんだと思います。


そして迎えた決勝戦前夜の最後の練習。最後にアタックディフェンスの練習の時はこれでもかというくらい攻めに攻めました、迎え撃たれるのがわかっていても。


それでも鉄壁の守りのAチームから最後に一本だけトライをとって練習を終えました。


最後の円陣で今は亡き当時のバイスキャプテンの先輩が「最後の最後まで本気で向かってきてくれてありがとう」みたいなことを言ってくれて、泣けてきた時に同期の彼を見ると彼も泣いていました。彼もまた夏にはレギュラー入りもしてましたが先輩の復帰により、メンバーから外れていました。


そして決勝戦へと続く。Part4へ続く

ラグビー 高校二年生編Part2 No.022

九州大会は当時は一位パートと二位パートに分かれていて九州沖縄でそれぞれ8校ずつで準々決勝からのトーナメントみたいな形でうまく組めていました。


当時は選抜大会もなかったので一位パートを優勝したら東日本大会に招待されるくらいでした。


我が校も他の県の二位には比較的余裕に勝って決勝の長崎県代表だけ少し手こずったかなくらいの感じで、無事に二位パート優勝で終えました。


その後に続く春の県大会では主力メンバーが3人欠けた状態でもライバルの某私立高校に10点差負けだったので監督は試合後に「先が見えたな」と言って上機嫌でした。


正直一位パートで九州大会に行っても佐賀の有名な工業高校とか大分の花園優勝経験もある高校とかと当たると初戦で負ける可能性もあるため、勝ち進めて試合数が多くなる二位パートの方が良いという計算もあったかもしれません。


その九州大会でも結局決勝戦は福岡代表のうちと長崎代表の高校でした。当時二年生でのちのサントリーで日本代表にもなる有名選手がいましたねー。


僕たちは全然知らなかったんですが、決勝戦前夜に持ち込み禁止の携帯電話が監督にバレて三年生は夜通し怒られていたみたいな話を聞きました。


試合には僅差で勝ったものの、帰りのバスとかは重苦しいムードやったなぁというのは覚えています。


ここから夏合宿に向けての練習になります。


ほとんど自分の話が出てこないね。だってあまり試合に出れなかったので。


夏休みは監督同士が仲良しの鹿児島の高校がうちに来て一週間ほど滞在して練習と試合を繰り返すというのが自分がいる時のパターンでした。


ただ夏合宿中盤からは怪我人が続出して、最終日にはメンバーが固まらず、かなり当初のメンバーからポジションをいじったので空いたのがフッカーのポジションでした。


機動力があると言われていたフッカーできる2人の先輩が2人ともフランカーに行き、空いたポジションに自分が滑り込むと行った感じかな。


そして合宿最後の練習試合でそのメンバーで試合したところ、完璧と言って良いくらいの内容での圧勝。


いつもは50-20くらい?だったのがその試合では80-0くらいでのシャットアウト勝ち。それに気分を良くした監督はしばらくこのメンバーで行こうとのことで棚からこぼれ落ちてきたレギュラーの座でしたが何とか掴み取ることができました。

 

そこからはその年の国体で躍進をするオール熊本と試合をしたり、長崎の強豪校と試合をしたり、レギュラーとして化け物ぞろいの一個上の先輩たちと試合ができたのは大きな財産となりました。


そして秋の県予選へと続く。Part3へ続く。

ラグビー高校二年生編Part1 No.021

花園の三回戦でのちにベスト4となる神奈川代表の高校に負けて一年生の代は終了。


ラグビーやったというよりは必死でついて行くだけやったなぁ。


そして1/2に福岡に帰って1/3は休み、1/4から次の代の練習が始まりました(笑)。新人戦が二週間後くらいやったかな。

 


ただ、花園に出たメンバーの半分以上が下級生だったため、チームの完成度は県内でも高いほうでした。


県予選を勝ち進んで行き、準決勝と決勝が確か、修学旅行の時期とかぶるという日程でした。


ここでラグビー部として戦力になる人は部活のため、修学旅行をキャンセルということになります。そしてラグビー部から戦力として見られなかった部員は晴れて修学旅行に行けます。


私は後者でした。


スキー合宿で場所は菅平。高校卒業から20年弱経っていてずっとラグビーしてますが、後にも先にもこれが今のところ最初で最後の菅平です。


雪に埋もれたラグビーポールが見えたのが印象的でした。


ラグビーの県予選は残念ながら準優勝。例年なら花園に出ていたはずの強豪私立の高校が11月から新チーム始動してたんで流石に勝てなかったみたいです。


ただ県で準優勝なので九州大会に参加できました。


ただ、この九州大会に監督が「怪我をして使えない奴は連れて行かない」と言い出して、県大会で負傷した何人かの同期は修学旅行にも九州大会の遠征にも行けなかったという奴もいました。

 


ここで運の良さを発揮して空いた座席に滑り込むように遠征メンバーに入れました。


Part2へ続く。

ほぼ2年ぶりのアップNo.020

前回アップしたのが2016年の9月、そして今が2018年の8月、ほぼ2年ほったらかしてました。ただ、アプリは残して置いて日記の削除もしてなかったのでふと俺にもブログあったなぁと思い出してまた書こうかなと。

 

というのもアウトプットって大事だなと改めて思わされました。

 

面白そうなこと考えていても外に出さなければ反応も何もわからないし考えてないのと一緒と言われても仕方ないよねと痛感したからです。

 

ある方は媒体を変えながら日に数本のブログの記事などをアップしてました。

 

仕事のことで一つ、趣味のことで一つ、恋愛のことで一つとか1日に必ずどれかについては書くくらいのペースで。

 

アクセス解析を見てみたらなんと合計で1000くらい閲覧されていました。

 

ラグビーのキーワードとかに反応して来た人もいるかもしれないのでこれからも基本はラグビーのことを中心にツイッターでつぶやくだけよりももう少し長くして形に残して行ければなぁと。

 

明日は高校三年生編描こうかな、なんか懐かしくてワクワクするな。その前に何を書いていたか読み返そ。

突然の連絡No.019

9/14の午後に連絡が来た。以前に何度か一緒にラグビーをやったことのある奴が試合中に倒れてそのまま帰らぬ人となったという話を。

今年は別のチームでやるということだったので会う機会は減っていたが出身が同じということで会った時は地元の話などもしていた。

まだ若く大学卒業して2年目くらいだったと思う。

実は僕はこれでラグビー中の出来事で友人を亡くすのは2回目である。

どちらもそれぞれの試合の当事者ではないものの個人的につながりがある人をなくすのは本当に辛い。しかもどちらも20代中盤という若く将来もある時だったのでなおさら。

1人は脳震盪、もう1人は心筋梗塞だそうだ。何か嫌なことが起きてしまうと誰かのせいにしないとやりきれない気持ちになってしまう。当該チームの安全管理はちゃんとしていたのか?とかバタフライエフェクトではないけどもしどこかで自分が違う行動とかを取っていたらそんなことにはつながらなかったんではないかなとか。

脳震盪で亡くなった友人も確か9月だった。僕はその時は当時のチームで北海道遠征に行き試合に臨むところだった。

亡くなる友人とは高校の時のつながりで帰る方向が一緒でよく自転車を漕ぎながらいろんなことを語りながら帰った思い出もある。そこにはもう1人の友人もいた。よく彼女と一緒に帰っていたので僕たちと帰ることは少なかったけどそれでもそいつが独り身の時は3人でコンビニに寄ったりしながら帰っていた。

僕が北海道で試合をした時に、当時札幌の歯科大学に行っていたそのもう1人の友人が見にきていた。ちょうどその試合と同じ時間帯にもう1人の友人は命を落とすことになる大怪我を負っていたということになる。

この時の彼はしばらく意識不明の重体という状態が2週間くらい続きその後に亡くなった。明るく人受けが良い人だったのでとんでもない数の友人が葬儀に来たという話も聞いた。

そして今回の件、また胸にぽっかりと穴があきそうな出来事だ。不安で動けないとかいうほどではないけれど、少しずつ何事にも対するやる気みたいなものを奪っていってる気がする。

明日は会社だけど終わったらやはり通夜には顔を出そう。後悔だけはしないように。

ラグビー高校一年生編No.018

前の投稿からだいぶあいてしまいました。

定期的に見てる人とかおるんかな?


晴れて高校生になることも決まったので春休みの時点で練習にも参加しなさいということで同じチームだった友達と連れ立って高校の練習に行きました。

ただ、その友達は中学校の九州代表に二年生から選ばれていて高校進学時も九州の高校ならどこにでも推薦で行けると言われるくらいの逸材でした。

その友達と比べると、自分はラグビー経験はあるもののほとんど一般人みたいなもんでした。身長が165cmくらい、体重は60kgちょっと。

他のチームからも同級生となるメンバーも集まってましたがその中でも実力は下の方だったと思います。

その春休みの練習で怪我をして大した練習もできないままに入学式へ。クラス発表で男子クラスと判明した時は青春が終わったと密かに嘆いていました。他のラグビー推薦で入ってきた友達たちはみんな女子がいるクラスになってました。

一年生の時は試合には出られるはずもないだろうから二年生になった時が勝負の年だと密かに考えてました。

ただ、ポジションはフッカー、当時の三年生にはフッカーの先輩がおらず二年生には2人いたものの1人はプロップ兼任となると、スクラム練習になると必然的にフッカーが2人しかいなくなります。そうなると練習では唯一上級生の中に入ってスクラムを組むことになりました。

これがひたすらにしんどい。精神的プレッシャーと肉体的プレッシャーが同時に襲ってきます。足や腕がパンパンになりスクラムが弱くなると両サイドの先輩から「力を抜いている!」と檄が飛び、相談できる人もなくただただ苦痛でした。

ストレスが限界に来た時に6月の半ばくらいに部活休むために学校休みましたもん(笑)。

一年生の時は試合に出ることはあってもBチームだったので、レギュラーなんて夢のまた夢。先輩たちは見事に県内6連覇中の某強豪私立高校を県大会決勝で下し、見事花園への切符を手にしました。

もちろん嬉しかったですけど、やっぱりどこか他人事のような感じ。

ただ大阪入りして先輩たちの練習に付き合いながら、あと何日一緒にできるのかなと思うと切なくなってきたのも事実でした。

花園の最後は、今年覇権復活を目指し母校の監督になった人で現役時代は大学選手権優勝時のキャプテンだった人が率いる神奈川の某強豪私立高校に敗れて高校の1年目のシーズンは終わりました。

この花園で過ごしている時に友人のお兄さんが大学時代のラグビー部のキャプテンをしている時を描写したオールアウトという本に出会いました。

大学生でこんなことを考えているんだ、と今その当時の彼らの年齢を優に超えた今でも痛感させられます。

増補改訂版が出るみたいなのでまたあの時の気持ちを思い出すように読んでみようかな。

脱線 高校受験編No.017

ラグビーは中学校編まで終わりましたがここからは少しラグビーから外れて高校受験編を書きたいと思います。

 

ラグビーの大会に負けた6月から土日の練習も終わり、平日は中学の部活をしてなかった自分は一気に暇になりました。

とは言っても受験生、学校終わったら塾に行って友達とだべりながら帰ると言う生活を続けていました。

 

ラグビーの友達も学校がみんな違うので会わなくなりました。その中でラグビーチームのコーチと話したりもして自分の進路の相談もしたりしました。

 

特に一個上の先輩たちは九州大会にも出場したのでラグビー推薦なんかがもらいやすかったらしく、本来の自分の学力よりもランク的に上の高校とかに行ったみたいです。

 

ただ、それがコーチの独断だったらしく、スクールの方針とは合わないらしく進学の道具にラグビーを使うなというような流れにもなったらしいです。

 

そんな中、たまにチームのみんなで会う機会があれば進路の話になりどこに行くのかまた近隣の2チーム(九州大会優勝チームと4位のチーム)の主力選手もどこに行くんだろうなんてみんなでワイワイ集まって話してました。

 

自分の志望校は地域で一番の公立の進学校でした。ラグビーも一度だけ花園に出たこともある県内では強い高校でした。

 

自分たちが県大会で負けたライバルチームの主力でもありクラスメイトの友達は少し遠くの博多の強豪私立高校(笑)に行くと言ってました。当時でも全国大会常連校、いまだと全国BEST4くらいは毎年行くような超強豪校です。その彼は中学校のオール九州のメンバーにも選ばれていて冬には遠征にも行くという有望選手だったのでその高校に行くのも納得でした。

 

その彼のお兄さんが自分たちの2個上で志望校のラグビー部にいるということもあり、行く前からいろんな情報は聞いていました。

 

あと、自分のその高校の志望理由はもう一つありました。父親もそこの高校のラグビー部出身でした。

 

なんとしても受かりたい、受験のチャンスを増やすということで推薦入試も受けてみようと思いました。

 

実際前年度のラグビー部の先輩たちはほとんど推薦で合格してました。推薦だと2月の中旬くらいに結果が出るので一般受験よりも1ヶ月くらい早く受験戦争から逃れられます(笑)。

 

そして、推薦の面接と小論文、どちらも失敗はなかったと思いましたが結果的には落ちてしまいました。

 

流石にショックを受けてそのことを聞いた当日は学校終わってから塾に行けませんでした。

 

後々聞くと、同じラグビーチームからは自分を含め3人受けましたが残りの2人は見事に受かりました。自分の内申点が低かったのと推薦で受かったうちの1人は推薦に落ちたら一つランクを下げた公立高校を受験するつもりだったそうです。

 

なので自分にはもう一回一般受験をして来い!!という意味だったのではといまは思えます。

 

そして一般受験の日。結構試験の出来は良い感じで合格後のテストの点公開の時に聞いた話だと上から30番だか50番くらいには入っていたそうです。60点満点の5教科のテストで270点くらいは取ってました。ただ、中学校の先生からの評価は低く、内申点は合格ラインに届かなかったそうです。

 

本当に落ちるか落ちないかくらいの当落線上にいたみたいですが、そこはラグビーをやっていたということもあり、名前を覚えていてくれた先生が合格させてくれたというような逸話を聞きました。

 

いま思うとこれくらいしか勉強に関しては誇れることがないです。現時点で34歳の自分の15歳の頃が頂点だったのでしょうか(笑)。

無事に受験も終わり、高校編に突入します。